人生を壊したくなってきた話

ただの日記

こんにちは、相河佑季です。

少し久々の更新になってしまいました。

最近はというと、だいぶ生活リズムが乱れてしまっていて、朝5時過ぎに寝て15時ごろに起きるという昼夜逆転生活をしています。

昨日は5時過ぎに寝たのですが眠剤の効きが悪かったのか11時半に起きてしまって、寝ぼけまなこでこのブログを書いている最中です。

ほんとうは毎日書きたいなと思うのですが、日々の暮らしの中でなかなか「よし書こう」と思い立つタイミングが来なくて、ついつい間が空いてしまいます。

そんな感じでも生きていけたら良いなあなんて思ったりもするのですが、平均寿命的に言えばまだまだ先は長いし、もうちょっと別のことも頑張らねばなりません。

そう、頑張らねば「ならない」と思っている時点でそれは本質的に100%やりたいことではないのであって、まあこの世に100%はないのですが、ちょっと今やっていることに嫌気がさすタイミングもないわけではありません。

前にnoteに『まるで売春のようで』という詩を書いたのですが、なんだか自らのことをコンテンツにして、しかもそれがエンタメという領域になってしまうと、ものすごく『消費されている感覚』があります。

自分が擦り減っていくというか、安っぽく荒っぽく扱われている感じがして、極論で言えば売春のようだなあと感じてしまったりもするのです。

きっと僕がやりたいのはそういうことではなくて、もっと本質的で、真理に近くて、創造のようなことがやりたいんだと思っています。

でも今はみんなの遊び相手というか、ネットのおもちゃというか、そういう存在に近くなっている自分を感じていて、それで食べていけるのなら御の字ではあるのだけれども、手放したいという気持ちも日に日に強くなってきています。

僕は昔からなのですが『ひとつのことに集中すると他が見えなくなる人』で、逆に言えば他はすべて捨ててたったひとつのことに集中したいのです。

今まで経験してきたものたちの中で最も「集中したい」と思ったのが音楽であり詩などを含めた創造であって、心の底では一日中そこにかじりついて、ずーっとそれをやっていたい。

そう思っているはずなのに『現実がそうなっていない』ということは、まだ心のどこかに何かしらのわだかまりとか、肉体を維持するという未練が存在するということなのです。

もっとこう、そういった未練を諦めきれないものでしょうか。なんでずっと肉体を維持することに心が囚われなければならないのか。

僕は人生を壊したい。壊したいです。もう一度作り変えたい。

それなのに人生は、別の台本を僕に押しつけてきていて、今はその流れに従って動いてしまっています。

どこかで何かを変えなければなりません。まだあともう少し時間がかかるかもしれない。2~3年は覚悟しておいた方が良いでしょう。

それでも、2~3年後に希望が待っているとするならば、あともう少しだけ生きていようという気持ちもわいてくるものです。

あとほんの少しだけでも「前向きに生きていようかな」と思う。そんな日記でした。

最後までお読みいただきありがとうございます。

相河佑季でした。