こんにちは、相河佑季です。
ふと「いただいたものをちゃんと返せているかなあ」なんて思いました。
例えば、僕の家の本棚には『海外の有名な音大のテキスト』があります。音楽理論や作曲について書かれた、ワーク付きの英語の分厚いテキストです。
なんでこれを持っているかというと、数年前にすごくお世話になっていた音楽スタジオの人がその大学の出身で、上京祝いにいただいたからです。
本当はコピーしたものをいただけるというお話だったのですが、引っ越し期限までに間に合わず、本体の教科書そのものをいただくことになってしまいました。
その方にとっても大切な思い出の品だろうから申し訳なく感じたし、しっかり勉強して音楽で成果を出す形で還元したいなと当時思ったのを覚えています。
しかしそこから数年経って現状を振り返れば、そのテキストはほとんど読んでいないし、ずっと本棚にしまわれたままです。
音楽理論に苦手さを感じていたり、英語を読むのが大変で、結局読まないまま『なんとなく持っている本』みたいになってしまいました。今ではあまり音楽もやらなくなってしまったし。
そのことに申し訳なさは感じているのですが、今さら返しに行くのも違うと思うし、むしろもう一度その方と会うのもなんだか違う気がしているので、お礼はしたいけれども何か別の形でお礼できたら良いのかなあとも思っています。
思えば、高校の時の先生にいただいた本もそうでした。
当時僕は本当にいろいろ思い悩んでいて(まあ今でもそうなのですが)すぐにでも死にそうな状態だったのですが、放課後にたくさんお話を聞いてくれる恩師とも呼べる先生がいました。
その先生が僕にくれたのが『東大の英語授業の様子を描いた本』で、先生が文学部出身ということもあったので、進路の道しるべとしてくれたんじゃないかなと思います。
生徒のために何時間もお話を聞いてくれたのにとどまらず、きっと「どの本が良いかな」と考えてわざわざ選んでくれたのだと思うと、本当に素晴らしい先生だったと思います。
でも僕はその本を一読しただけでほとんど興味が持てずに終わりました。なんと冷たい人間なのでしょう。
さすが東大の授業なだけあってユーモアある講義や生徒とのやり取りが描かれていてそれは興味深かったのですが、そもそも英語が得意科目じゃないのもあって例文や翻訳自体が僕には難しすぎたし、文学部にも興味がなかったので、よくわからないまま終わってしまいました。
「この本をきっかけに勉学や進路により興味を持ってほしい」的な想いが先生にはあったのかもしれないけれど、ちょっと当時の僕には違ったのだと思います。たぶん心理学の本などの方がぴったりとハマったことでしょう。
けれども『しっかり考えて本を選んでプレゼントしてくれた』その気持ちは本物なのです。
その気持ちに、僕は応えられているでしょうか。応えられるような人生を送ってきたでしょうか。
答えは否です。
自分なりには一定の到達点に達したと思っているけれど、きっと僕に目をかけてくれた方々が期待していた未来像とはまったく違う人生を歩んでいて、期待されたレベルの到達点にも達していないのです。
そのことは本当に「申し訳ない」という気持ちです。
ですが一方で、それらの期待のほとんどは『社会的成功』に関わるものです。
・社会に役立つ人材になってほしい
・社長になって大成功してほしい
・なんらかの分野で名を馳せてほしい
かつて手紙のやり取りをしていた小学校の恩師は、僕が「音楽の専門学校に行きたい」「音楽の道に進みたい」という内容の手紙を送ると「社長になって立派に働いている元教え子がいる」という内容で返信をしてきました。
彼女にとっては『社長になること=立派になること』であって、音楽の道に進むことは非常に厳しく成功率が低いので、もっと別の成功率の高い道を選んで社会の役に立ちなさいという意味合いでした。
「社会の役に立ちなさい」は、正しいと共に一種の呪いでもあると僕は思います。
本人がその時に望んだ本当にやりたいことを容易につぶせる正論パンチが「社会の役に立ちなさい」です。
例えばレゴが大好きで「部屋の中で一日中レゴブロックを積み上げていたい」という人がいるとします。
その人が出来上がったレゴを写真に撮ってSNSにアップするなどもせず、ただひたすらにレゴブロックを積み上げていただけなのだったら、その人は社会に対してなんの役にも立っていないでしょう。
でも本人はそれでものすごく楽しいのです。心の底から楽しくて、生命が充実してキラキラ輝いています。
しかし他人は怒るでしょう。「ずっとレゴなんか積み上げてないでさっさと働きにいきなさい」と。もしかしたら「あなたのために言ってる」という言葉も付いてくるかもしれません。
それで仕方なく働きに行って、なんらかの成果を出して偶然成功してしまったとします。
すると社会のみんなは「あなたは立派な人だ」と尊敬します。本人もその称賛に浸ってしまって、もっと働いて成果を出そうとするかもしれません。
ですが、心の底の小さな子供が違うのです。ずっとレゴを積み上げていたい。
だからいずれ破綻するのです。心身に不調が出てきて、だんだん働けなくなって、うつ病とかになったりします。
それは働きすぎて体を悪くしたのではなく「レゴを積み上げていたい」と思っている無意識が、レゴを積み上げられる環境をつくれるように『わざと』体調不良を引き起こしているのです。
つまるところ、正論パンチに従って本心が望んでいない方向へ進んでも、結局壊れてしまいます。本心と正論パンチがズレているのなら、本心の方を優先すべきなのです。
振り返って自らのことに目を向けてみれば、僕はそもそも『社会的成功』をそこまで望んでいません。
期待されてプレゼントを頂けることは心の底から嬉しいし、恩返しがしたい。でもその方の期待どおりの成果を出すことは、本心とズレていて難しいのです。
もちろん僕も、期待どおりの成果が出せるようにがんばりました。あくまで自分なりのやり方ですが、毎日いろいろ取り組んでみたり、前に進もうとはしました。
でもなかなか現実化しないのです。少しは惜しいところまでいっても、いつも心身が疲れてしまって、最終的には壊れてしまうのです。変に頑張ってしまうのです。
そうして「本心とズレているんだなあ」ということに気がつきました。ズレた願望は成就しないということにも気がつきました。
じゃあ『ズレてない願望』とは一体なんでしょうか。
きっと今、その願望を視界にとらえられる距離に近づいていると思います。
過去に描いた『期待感に影響された夢』とは違うかもしれませんが、自分が心の底から望んでいる景色を、あともう少しというところで見られるのではないかと思っています。
またあとちょっと時間はかかると思いますが、真剣に向き合って、自分なりの形で、今まで恩を受けた方々に還元していきたいです。
最後までお読みいただきありがとうございます。
相河佑季でした。