相河佑季です。
今日は『依存とか真理とか世界のこととか。』という記事を書いたのですが、その冒頭で「この頃、とある方に依存しているなーと感じます。」と書きました。
そのことについてふと気がついたのでブログに書き記しておこうと思います。
なにに気がついたかというと、僕の今の人間関係・生活環境・肉体や精神について全て『僕が望んだ結果』なのかもしれないということです。
例えば人間関係でいえば、僕は深いことを話せる関係が好きで、逆に『単に遊びたい、楽しみたいだけの関係』は苦手です。もしお話できるのなら、お互い何かを得られたり、気づきのある関係性が好きです。
生活環境でいえば、ふつうに働かずに24時間ずっと家にいて、いつ寝ていつ起きてもいい生活を構築したのも自分自身です。これも自ら選び取った結果といえます。
もしこれらが結果であるならば、そのような日々の中で出来上がった肉体や精神も、また自らが選び取った結果の副産物だといえるでしょう。
「誰かに依存したいな」「寂しいな」と思うのも、その相手がいないということも、全ては自分自身のこれまでの選択の結果なのです。
このブログでもどこかで触れているかと思うのですが、実は世界や時間というものに連続性はなく、映画のコマのように一瞬一瞬が独立したシーンを映し出しています。
『時間という量子』に最小単位があるように、量子で構築されている世界にも最小単位があり、また量子世界では未来が過去に影響を及ぼすこともあることから、一般的な『過去が未来に影響を与える』因果という概念は成立しません。
なのでもし僕が「現状はこれまでの選択の結果だ」と感じても、それはあくまで人間の視点(視力)で見た後づけの意味づけであって、全く本質的ではないのです。その点でいえば、僕の感じ方は無意味です。
ですが人間の視点(視力)のサイズ感でいえば、やはり時間は連続しています。過去の選択が現在に影響を与え、現在の選択がまた未来に影響を与えます。それに対して何かを感じたり、考えたりするということも起こります。
結局のところ僕たちは、そのような本質的でない、虚無の写像の中で永遠に考え悩んでいるのです。
そのことは僕も分かっているのに、なぜか考え、悩み、時にトラブルを起こします。無意味であると知りつつも、期待し、欲し、なんらかの結果を望むのです。なんだかばからしいです。
じゃあせめて、人間サイズの視点で『良い未来につながる選択』をしたいものだなと思います。
今の僕にとって『良い未来につながる選択』が一体なんなのかも不明瞭ですが、きっとぼやっと「こっちの方向なんだろうな」ぐらいは見えています。本当にぼんやり、霧の中の看板が見える程度のものです。
問題なのは、その看板に向かう道のりの途中でやめてしまったり、嫌になったり辛くなったりして、全く別の方向へ歩みを進めてしまうことです。
だから大切なのは、どれだけ看板がぼんやり見えている程度でも、景色や道がハッキリ見えていないのだとしても、本心が望んでいる方向へと進み続けることです。近づけばいつかはハッキリと見えてくるのですから。
自暴自棄にならないことです。全部を壊して、ゼロにしてしまうことをやめるべきなのです。
自戒の念を込めて、改めてそのような気づきを得たという話でした。
最後までお読みいただきありがとうございます。
相河佑季でした。