相河佑季です。
ちょっと昨日引き金になる出来事があって、ものすごく「割り切れないなー」という感覚を抱いています。
具体的な情報に触れないように自らのメンタルに焦点を当てて書きたいのですが、ひらたくいえば
・モヤモヤしている
・怒りを覚えている
・寂しい気持ち
こんな感情を抱いています。
特にモヤモヤや怒りが強めで、なぜそうなってしまったかというと、身近で『ルール違反』があったからです。明確に文章で禁止されているルールを破っている人を見てしまいました。
僕はもともと、決まった筋道とかルーティン、ルールを破る現場を目撃すると激しく怒りやすい性質を持っています。(あまり表には出しませんが)
発達障害の検査をすれば、おそらくASD(高機能自閉症)にかなり近い傾向が出ると思うのですが、とにかく筋道とかルーティンに強いこだわりがあるし、明文化されたルールを破ることに強い抵抗があります。
(古くて形骸化したルールや習慣や文化は、さっさとぶっ壊れちゃえばいいと思っているのにね)
今回はその現場を目撃してしまって、でもその人が頑張っているのを知っているから応援したい気持ちもあって、この感情に折り合いをつけるにはどうしたら良いのだろうと深く悩んでいます。
昔に比べたら烈火の如く怒ることもほとんどなくなったし、ちょっとは『ふつうの人』っぽい擬態も上手になったと自分では感じていたのですが「未だにこんなにモヤモヤするんだなあ」って自分でも苦しんでいます。
自分は自分・他人は他人で生きているつもりですが、周囲にいる人には秩序を守っていてほしい。客観的にはぶち壊れた人生を歩んでいてもいいから、一本筋が通った生き方をしていてほしい。
これは勝手な期待なのかもしれないけれど、どうしてもそう思ってしまいます。
だから今回の出来事はものすごくショックで「またひとり、心から信頼できる人が減ったな」と感じました。
でも「信頼できる人が減ったな」というのも、白黒思考で、0か100か思考なのです。
別に頼る時は頼ればいいし、自分ひとりで大丈夫な時なら自分ひとりで生きていれば良い。語弊のある言い方かもしれませんが、都合の良い関係でいたら人間それでも良いのです。
なのにその『グレーな関係性』がなんだかモヤモヤする。中途半端は嫌だ。頼るなら頼りきりたいし、そうじゃないなら信頼できないから、表面上の付き合いでいるか、関係を切りたい。ものすごく寂しいのだけれども。
これはきっと、僕の心的な問題なんだと思います。
きっとふつうはもっと他者に寛容で「まあテキトーでもいっか」で済ますことが出来て、結果オーライで人間関係を築いていけるんじゃないかなって。
それがふつうなのに、なぜ自分はそれが出来ないのだろう。なぜイライラ、モヤモヤしてしまうのだろう。この気持ちはどこから来るのだろう。僕のASD傾向が強いからなのでしょうか?
じゃあそれはどうやったら治すことができるのだろう。どうしたらもっと『テキトー』に生きることができるのだろう、一生こういうのに悩まなきゃいけないのかなって。
なんでしょう、本当に孤独なんです。孤独にずっと悩んでいる。
こういう孤独が、何かしらの創作を生み出すこともあります。この文章だってそう。詩だってそう。音楽だって、僕はまともに描けないけれど絵だってそう。現代アートもインスタレーションもそうだし。
いつも怒りを原動力に生きてきた気がします。絶望とか、ネガティブな感情がいつも何かの原動力になってきた気がする。
そういう生き方はすごく疲れるけれど、僕はそれ以外の生き方を知らないのです。
淡々と仕事をして、淡々とこなすこと。それは出来るけれども、そこに創造性はなくって。創造的なものが生まれる瞬間は、いつも僕は深く深く怒っています。悲しんでいます。ひとりぼっちで孤独に痛めつけられています。
でもその結果生まれたものは、本当に創造的です。僕が心の底から求めているものです。きっとそれが僕にとっての生き方の真実で、世界の真実なんだろうなと思います。
だからきっと僕は、このモヤモヤや怒りを永遠に原動力にしていかなければならないのでしょう。
それが自身を傷つけ、寿命を縮めるものなのだとしても、心の底から求めているものを形にしてくれるのですから。形にする方法を知っているだけでも、感謝しなければいけないことなのかもしれません。
今のモヤモヤはこの文章を書いたぐらいじゃ晴れないと思うけれども、これからもずっとこんな怒りと付き合っていくんだろうなって思います。
「それでもいいんだ」「それが一番求めていた生き方なんだ」と、いつの日か思えるといいですね。
最後までお読み頂きありがとうございます。
相河佑季でした。