こんにちは、相河佑季です。
「生きたいように生きられたらいいのに」
そういうタイトルで詩を書きました。
だいぶ口語調というか「10代のころならこんな口調の詩も書いたなあ」なんて思いながら、出てきた言葉をそのままお喋りのように書いてみました。
そう、最近は「生きたいように生きられてないなあ」という感覚が強くなっています。
以前にブログで『没頭するということ。』という記事を書いたのですが、この記事は自戒も含んでいます。
僕は今、2~3種類のことをやっています。
大きく分けると、
・お仕事的なもの
・日常
・創作
の3種類で、一番ウェイトが重いのがお仕事的なもの。空いた時間に食事や家事などの日常。さらに気が向いた時に創作といった具合です。創作には正直あまり時間をかけられていません。
ですが、本当にやりたいのは創作であり真理探究であって、そのための瞑想です。
起きたらすぐに瞑想をして創作にとりかかり、食事休憩の後にかるく瞑想をして、また創作に戻り一日を終える。
そんな毎日の繰り返しで良いというか、それぐらい24時間創作のことを考えて、そこに没頭したいと思っています。
しかし現状、それが出来ていないことにちょっとモヤモヤしていて「こんな毎日で良いのかなあ」「もっと自分を、人生を変えていきたいなあ」と思い始めています。
本来これはすごくぜいたくな悩みです。
かつて一日の大半を仕事に支配されていた時代は、本当にやりたいことをやるのにも必死に時間をつくって、心身に無理を言わせて取り組んでいました。
その時に比べれば、今は時間があります。
一番ウェイトが重いお仕事的なものも、やりたいことに完全に直結しているわけではないけれど、決してやりたくないことではありません。7割ぐらいは遊びのようなもので、ストレスもあれどある意味気ままにできるものです。
だからかつての自分よりも明らかに環境的に恵まれているのですが、やっぱりまだ到達地点にはいなくて、さらなる先を目指してしまいます。
『さらなる先』とは何かといえば『24時間、創作や真理探究に没頭できる生活』であって、それが僕の人生の完成形というか、心の底から願っている在り方です。
「なぜそれが出来ないのか」
ということを考えた時に、肉体維持の問題があって、ひらたくいうとお金や日々の生活の問題があります。
「誰だってそうだよ」「好きなことだけして生きていけないよ」という意見もあるかとは思うのですが、どうせ生きているなら僕はやりたいようにやりたいし、生きたいように生きたいです。
お金や生活など肉体維持に関わることに恐怖や不安を抱いての行動はゼロにしたいし、なるべくゼロに近づけていきたい。だからお仕事的なものもどんどん軽くして、最終的には見えないぐらいにしたい。
その上で、創作や真理探究への没頭力もやや欠けているなと感じます。
いくら日常生活に余裕ができても、そこへの没頭力がなければ、ただ日々をだらだら過ごすだけになります。きっとベッドでゴロゴロしたりスマホをダラダラ見ているうちに、年月が過ぎていくでしょう。
それを避けるためには、日々真理のことをイメージして、焼き付けて、渇望という名のドーパミンを放出する必要があります。それも自然な渇望ならもっと良いです。
本当にやりたいことならば、努力という要素も必要ありません。だって子供がゲームに何時間も集中するのとまったく同じだから。そこに努力という言葉は存在しないのです。純粋な楽しみしかありません。
だから純粋に渇望して、楽しんで、ただそれだけの毎日を送りたいのです。その具体的な形が『24時間、創作や真理探究に没頭できる生活』だと僕は思っています。
そのためには、今やっていることの意味づけ定義づけをもう一度考え直して、方向性を修正したり、行動全体のバランスを取り直していく必要があります。
惰性ではなく意思を持って、調整し、ほんとうに大切だと思うものに没頭した方がよいのです。
あまりメリハリやコントロールの効かない心身をしているので、この『調整』はとても難しく感じてしまうのですが、今一度自身を見つめなおして、人生をリバランスしていけたら良いなあと思っています。
最後までお読み頂きありがとうございます。
相河佑季でした。