何もしない日はソワソワしてしまう

ただの日記

こんにちは、相河佑季です。

今日は『何もしない日』です。

いつもはお仕事のようなものをしたり文章を書いたりと多少は動いているのですが、今日は一応定休日扱いの日で、特に何もしていません。

やったことと言えばせいぜいコンビニに行ったこととお風呂に入ったことぐらい。あとはだらだらごろごろと一日を過ごしていました。

このブログの更新も本当はしないつもりだったのですが、なんとなくソワソワしてしまって「何かやりたい」と思って文章を書いています。

この『何もしていないとソワソワする』って一体どこからくるのでしょう。

僕はいわゆる仕事人間ではないので労働というものに対して全然モチベーションがないし、かつてに比べたら熱中している趣味もないので、常に何かをしている必要ってないはずです。

日々を暮らせたらそれで良いし、そういった中でちょっとずつ自分の夢に1歩でも近づいていけたら良い。ゴールを設定してがっつりスケジュール組んで達成に向かうとか、そういうタイプの人間ではないのです。きっと。

だからたまにはダラダラして、何もしない一日があっても良いのです。

でもそれだとソワソワしてしまう。

「何かをしていたい」
「時間をつぶしたい」
「早く過ぎ去って欲しい」

そんな想いで何かをやりはじめてしまったり、逆に寝たりお酒を飲んだりして、ムダに時間を潰してしまったりします。

これを書いているのは2024年10月24日の21時32分なのですが、とにかくお酒でも飲んで時間感覚をマヒさせて、1時ぐらいになってぼんやり頭のまま眠りにつきたいです。

(お酒を飲むと次の日がだるくなるので、最近はあまり飲まないよう注意しているのですが……。)

僕は双極症や睡眠障害などのメンタル疾患はありますが、ADHDや多動性障害などは診断されたことがありません。もしかするとASDはグレーかもしれませんが、それもきちんと調べたわけではないです。

なのでこの『何もしていない時のソワソワ感』は、生育環境によるものなのかなと思っています。

例えば僕は中学受験を経験しているのですが、小学校の時は毎晩のように夜中3時まで勉強させられていました。

小学校が遠く朝6時半には必ず起きなければならなかったため、確実に睡眠不足です。いつも母が横で監視していたり、塾のテストの成績を見てはヒステリックに泣き叫ぶので、当時のストレスは非常に大きなものでした。

そういった環境で育つと『結果につながる行動こそ善』という価値観になります。

どれだけ勉強したかとか、プロセス(過程)は関係ありません。テストの点数と順位だけが全てです。結果がすべてです。

また、会社員時代に「数人のチームで年商10億円をつくってほしい」「1人で年商3億円は出してほしい」と言われ、経営者から毎日のように電話で当日の売上確認を受けていたこともあります。本人は良かれと思ってやっていたかもしれませんが、これもパワハラ的で大きなストレスを感じていました。

株式会社というのは『株主への利益還元が至上命題』であり、売上こそすべてなのが大原則なので、そこに社員のワークライフバランスや幸福な生活といった価値観は共存しません。

もし「当社はワークライフバランスを重視しています」という会社があるなら、それはあくまで社員の生産性を最大化させるための戦略であり、いわゆる福利厚生のすべては生産性(売上)のためにあると考えた方が良いです。

(昭和の時代はほんとうに社員の幸福を考えている経営者も多かったかもしれませんが、グローバリズムが浸透して以降はどんどんアメリカ型の本来の資本主義に基づく会社が増えていると感じます。その意味では、日本の社会主義的な資本主義に基づいた企業経営は、亜種のようなガラパゴス形態だったのです。)

そんな会社でビジネスマインドを叩き込まれたこともあり、そこでも生産性第一主義(結果主義)の思考が強く植え付けられてしまいました。

他にも似たような経験はいくつかあって、おそらくそういった経験たちが僕を後天的に『結果につながる行動こそ善』という価値観にしてしまい、そこから離れられなくなったのではないかと思います。

今でもその価値観が抜け切らないので、焦って何かをしてしまったり、何もしない定休日だと決めていたはずなのにこうやってブログを書いてしまうのだと思います。

本来であれば、結果主義を誘発するものから距離を取って心身を休めた方が良いのでしょう。

ビジネスや銀行通帳などお金に関わるものはもちろんのこと、フォロワー数が見えるSNSなども一切見ない方が良いに越したことはありません。プロセスそのものを楽しめないならば、勝ち負けのあるゲームだってしない方が良いかもしれない。公園のベンチに座って、ただダラダラと景色を眺めているのが一番良いのです。

けれども今日もこうやって文章を書いてしまいます。

『何もしていない自分・ありのままの自分』を心の底から肯定できないまま、何もしないことに許可を出せないまま、こうやって何かをしてしまうのです。

この焦燥感と一生付き合っていかなきゃいけないと考えるとちょっと目まいがしてきてしまうのですが、他の人は一体どうやって対処しているのでしょうか。

それともこんな焦燥感を抱くぐらい僕が暇人で、時間があるからこそ生まれる悩みなのでしょうか。

あまり本質的なことを悩みすぎると自我や存在意義そのものが揺らいでしまうことは経験から知っているので、今日はこのあたりでやめにしておくことにします。

体には良くないけれど、お酒でも飲んでごまかそうかな。どうしよう。

最後までお読みいただきありがとうございます。

相河佑季でした。