家族と愛情への認識について。

日々の言葉

相河佑季です。

2024年も残り20日とあとちょっと。そろそろ年末に近づいてきました。

僕はここ数年は毎年実家に帰省しているのですが、今年は「あまり帰省したくないなあ」と思っています。年末年始にやりたいことがあるからです。

実家には母が一人で住んでいて、もともと過保護でヒステリックな共依存タイプの母親でしたから、ひらたくいうと今でもあまり子離れしきれていないタイプだと思います。

なのできっと母も「1年に1回ぐらいは顔を見たい」と思っているとは思うのですが、家に帰ってもやりたいことは進まないし、会社の同僚の愚痴とか近所の噂とかどうでも良い話をずっと聞かされるだけなので、ぶっちゃけあまり帰りたくはありません。

「家族に対する愛情はないのか」

と言われそうなのですが、幼い時にもらった愛は、塾のテストの成績と引き換えの『有償の愛』だけでしたから『無償の愛』の形がよくわからなくて、母の顔を見るのは数年に一回でも十分すぎるなと思うようになってしまいました。

こんな僕を「冷たい人間」と評価する人もいると思うしその人の認識パターンによってはそうなるのでしょうけど、こう育ってしまったのだからどうしようもありません。精神的虐待を受けて育ったのなら、愛情の形が分からなくても仕方ないと個人的には思うのです。

そんな感じですから今年はあまり実家に帰りたくなくて、ただ誰かにこういうことを話しても「お母さんは君の顔を見たいときっと思っているよ」と帰省を勧める声しか出てこないし、どうしようかなあと悩んでしまいます。

中には「もし来年お母さんに何かあったら、帰省しなかったことを後悔するよー」という声も頂いたのですが、正直なところ、あまり後悔はしないと思います。

顔だったら1年前帰省した際に見ているし、記憶の中の母は生き続けています。

僕だって、母のことを恨んでいた時期はありましたが、それはあくまで当時の母です。今の母に対しての感謝もあるし、嬉しいことや楽しいこともきっといっぱいあったと思います。そういう母も同時並行的に存在する。

だから別に1年顔を見なかったぐらいで後悔はしないだろうし、人間いつかは死ぬものです。

もし母が亡くなったら、ご縁がつながっている身内は誰一人としていなくなります。きっと寂しかったり悲しい気持ちにはなって、ひとり、部屋で泣いたりもするでしょう。

でも最終的には「母も大変な人生だったんだな」「この人はこういう生き方を貫いたんだな」と、亡き骸の顔を観て静かに思うのみでしょう。僕はそういう人間なのです。

家族愛が分からない。愛情の形が分からない。

これらはきっと、今後の人間関係の構築に大きな難しさを与えます。

もし誰か愛する人が出来て、その人と残りの人生を歩んでいきたいのだとしたら?

僕はきっとなるべくドライな関係性を望むでしょう。お互いが死んでも「ああ、逝ってしまったんだなあ」と思えるぐらいの距離感で、それぞれが自立しているぐらいがちょうど良い。

それ以上近づいてしまうと、僕は相手への接し方がわからないし、もしかしたら相手に悪影響を及ぼしてしまうかもしれません。機嫌が悪い姿を見せるとか、毒舌をぶつけてしまうとか、相手を傷つけてしまうかもしれない。

「それでも良い」という相手がいたら別なのかもしれませんが、それは望むべき形ではありません。

きっとこの『愛情の形が分からない』という問題は、死ぬまで僕につきまとうでしょう。「冷たい人ですね」という見方をされ続けると思います。でもわからないのだから仕方のないことだと思っています。

なるべく一人でいましょう。なるべく独りでいましょう。

他人と距離感を取って、誰かを傷つける可能性を少しでも減らして、独りぼっちでも生きていけるようにならないといけないのです。それがきっと今世の課題なのだと思います。

もしかすると『無償の愛』は、極小と極大の点にしか存在しないのかもしれません。

赤ん坊を愛する家族のように、人類みんなを愛する聖人のように。どちらかに振り切らないと得られないものなのかもしれない。

もしそうだとしたなら、僕は後者を選びましょう。

個人という単位では「冷たい人」のまま、人類みんなを愛するように努力しましょう。そうしたら僕もいつか『無償の愛』を理解できる日がくるかもしれません。

人へ、神へ。無償の愛を捧げられる日が、いつか訪れますように。

最後までお読みいただきありがとうございます。

相河佑季でした。