相河佑季です。
今日、本当にちょっとしたことなのですがショックな出来事がありました。
まあ本当に、本当にささいなことなのでそこまで気にする話でもないのですが、なんて説明したら良いのでしょう、とある方とほんの少しだけ距離が離れるような出来事です。
あくまでほんの少しだけ離れてしまっただけであって、今でも僕に価値を感じてくれているのだろうし、仲良くしたいと思ってくれていると思いますからものすごくショックな出来事というわけでは全くないのですが、なんだろう、そんなことでも意外と深く傷ついてしまっています。
「こんな些細なことなのに、なんでこんなに傷ついているんだろう」
って考えるのですが、自分自身が繊細すぎるのかもしれないし、何かしら「人に好かれない自分には価値がない」みたいな考え方とか、根っこの部分で自己肯定感のような問題が発生しているのかもしれません。
僕は子どもの時は『テストの成績が良くないと激しく叱られる子(良ければ褒められる子)』だったのですが、塾のテストで上位を取らないと、母がヒステリックに泣き叫ぶような家庭で育ちました。
なので『上位を取ること=自らの価値』みたいなマインドが心の奥底にあると思うのですが、もう少し言い換えてみれば『他人に良い評価をされること=自らの価値』ということになるのだと思います。
その意味で、誰かからの評価がほんの少しでも下がってしまって、しかもそれが目に見える形で表れてしまうと、自らの尊厳が揺らいでしまって、心がグラグラして、なかなかに深く傷ついてしまいます。
逆に言えば『常に完璧な自分』であれば良いのです。
他人から認められて、常に高い評価を維持していて、どんどん評価してくれる方が増えていって。
そういう自分であれば認められるし、尊厳も保たれるし、自己肯定感も高まっていきます。
でも、きっとこれは欲求なんだと思います。子どもの頃に植え付けられたマインドからくる欲求。
だって、本来なら『他人からの評価=自らの価値』なんておかしいのです。誰か依存で自己の尊厳を保つことは、流動的な社会的関係にあって、常に心が揺らぐことを意味します。
『自分からの評価=自らの価値』として、自分で自分を愛するという行為を覚えねばならないのです。そういう考え方ができるように、自らのマインドを書き換えていかなければなりません。
ですが、子どもの頃からのマインドを書き換えることは本当に至難のわざです。コーチングとかカウンセリングとか、他者の力を長い時間借り続けてやっと実現できることでしょう。
ですから、本来はそこに目を向けるべきなのですが、今はなかなかそれをするやる気が出ない。なのでなるべく『他人からの評価が形になったもの』つまるところ”数字”を目に入れないようにして、いろんな数字を見ないようにしています。だって目にしてしまったらショックだもの。
でもやっぱり何かのミスとかシステム的なもので、目に入ってしまうことはあります。
Xでそれなりに仲良しだと思っていた人のポストがTLに流れてきて、ふとプロフィールを見に行ったらフォローを外されていたとか。Youtubeで数字的な下落を目にしてしまった時とか。
1ミリとか2ミリとか、本当に些細な出来事ではあるし……
人生全体から見たらどうでも良い、むしろ本当に好きでいてくれる人たちだけに囲まれて過ごせたらそれだけで幸せになれるはずなのです。なのに僕は、離れていくほうに目が行きやすくて、それで深く傷ついてしまう。
正直なところ、SNSとか向いてないのだと思います。ネットでもリアルでも、コミュニケーションスキルはあっても、コミュニケーションという行為自体があまり向いていない。
たぶんブログとか音楽とか創作物をひたすら毎日作り続けて、発信して投げ続けて生きていけるのなら、それだけで良いのでしょう。
誰かの反応なんか気にしない世界が合っていると思います。他人の行動が絡んだ数字的評価なんか見たくない。自分を傷つけられるから。もしかしたらFXとかやってた方がずっと心穏やかかもしれません。対物なので。
かといって人間残念なもので、どんなに引きこもりでも最低限ネットぐらいでは誰かと繋がっていないと、社会的動物としての本能が自らを死に追いやっていきます。これは本当に残念な仕組みです。
孤独でいたらいずれ死んでしまうし、誰かと繋がれば傷つくことが待っている。本当に厄介ですね。
孤独でいても死なないように自らを改造できないでしょうか。心理的に深い部分から自己暗示をかけることはできないでしょうか。心って作り変えられないのかな。
もっと強く、もっと固く、そしてしなやかに生きたいものです。生きるって本当に辛いなあ。
最後までお読みいただきありがとうございます。
相河佑季でした。