相河佑季です。
今日も朝からなんだかんだと活動をしているのですが、誰かと何かしらの通話をしたいなあと思っていて、どことなく虚無感があります。
「通話したい理由ってなんだろう?」って考えるのですが、その人との親交を深めたり、同じ時間を共有したり、孤独感がなくなってどこか安心するからだと思います。
でもそれ以上に、たぶんなんですけど、何もしていないと「早く死にたい」と思っていまうのです。
僕にとっては通話もお薬もお酒もおそらく似たような機能を持っていて『人生のスキップ機能』だと思います。
だらだら通話していても、お薬やお酒で頭ぽやぽやしていても、時の流れがあっという間になります。「え、もうこんな時間なの!?」ってなります。それがたぶん心地よい一日の過ごし方なのです。
でもお薬やお酒は身体に悪いのは百も承知ですから、通話とかに頼ってしまう。
もちろん何らかの作業に没頭しても良いのですけれど、それはここ最近よくブログに書いている『対物的な依存』というやつで、おそらく『対人的な依存』が僕の日常に全く足りていないから、そういうものを求めるのでしょう。
かといってたった一人に『対人的な依存』を求めると相手が重く感じてしまうのも分かっているので、本来であれば複数の友人を持ち、その時々でいろんな友人と話しながら生きていくのが一番良いのだと思います。
一方で僕はコミュ障でもありますから、そもそも複数の友人をもつこと自体がなんだか面倒です。ひとりやふたり、多くても三人ぐらいで済むならそれぐらいが気楽な気がする。
けれども、その『三人ぐらい』を見つけるのって、ものすごく大変なんですよね。
ひとり見つけては離れていって、またひとり見つけては離れていって。その繰り返しで、僕のようなコミュ障にとって、常に三人いるみたいな状況ってだいぶ稀なんじゃないかなと思います。
なので特定の一人に依存しがちで、でもそこに依存しまくるとまた離れていってしまう。頭では分かっているのに止められない。これってきっと『生きるために必要』だからだと思うんです。
人って根本的に「早く死にたい」んじゃないかなと思っています。
そもそも生命ってエントロピーの増大から考えたら謎な存在で、すべてが崩壊していく世界の中で個体を維持するってものすごいことです。死ね死ね圧力に抵抗するってものすごいパワーがいります。
そのパワーが何からもたらされるかといえば、対人・対物限らずなんらかへの依存であって、僕の場合は対物依存はある程度は足りていても対人依存はほとんど足りていませんから、その部分で不足を感じている。
対物依存だけだと「人生ってひまだなあ」と感じる時間が長くなります。そしてそういう時間が増えると「早く死にたいなあ」と思う頻度もすごく増えます。
だから僕はきっと生きるために対人依存を求めているのであって、それはある意味ではものすごいエゴだなあって思ったりもするのです。だって依存することによって自らを生かそうとしているのだから。
人間って、自分自身が生きるだけでも精一杯です。
それが友達や恋人や家族のぶんまで背負わなきゃいけないとかなったら、とんでもなく高負荷だと思います。でもそれをやってのけてる人たちがいる。本当にものすごいことだと思います。
僕もなんらかの、自分なりの対人依存法を見つけて、形づくらなければなりません。
でもそれがどういう形で、どういうルートをたどれば良いのかが全く見えてこない。思いついたルートも、なんというか「ムダだなあ」「面倒だなあ」って感じてしまうことも多いのです。
それでも、肉体が(勝手に)生きている以上は精神も(そこそこ健全に)生きていかねばならないわけですから、やっぱり自分なりのなんらかの方法を見つけるべきなんだろうなあと思います。
理想の環境を求めてたどりついた先が「早く死にたい」だなんて、なんだか酷なものですね。けれども人間って案外そんなものなのかもしれません。真理も似たようなものだったりしてね。
最後までお読みいただきありがとうございます。
相河佑季でした。