『ふつうの人』との境界線

日々の言葉

相河佑季です。

なんでしょう、Xでもつぶやいたのですが

自分にとって「生きやすいな」という環境を作れば作るほど、人間から離れていく感じがします。社会との繋がりがどんどん切れていくというか。

でも不思議なもので「こっちのが生きやすい」という環境へ向かえば向かうほど、どこか『生きづらさ』とか『寂しさ』みたいなものを感じてもしまうんですよね。

きっとこういう感覚って実際になってみた人しか分からなくって、たぶんホームレスさんとかには伝わると思うのだけど『どこか社会となじめない』が積み重なって、人から離れる選択をしつづけた結果、こういう状況に追い込まれてゆくのです。

自身を救ってくれるのが人との繋がりなのに、人から離れていた方が生きやすいのですから、そこには絶対的な矛盾に近いものがあります。

きっとよっぽど信頼できる理解者がたった一人でもいたらそれだけでも素晴らしいことで、かといってその人にはその人の人生があるから、100%依存することなんてできない。

それなら3人ぐらいでもそういう人がいたら良いのだけど、そういう人と出会うのもとても困難で、きっと長い時間もかかるのです。

世の中では「私は陰キャだよ」なんて表現をする人もいるけれど、家に引きこもり気味でもゲームやアニメや漫画を見て、SNSでもやっているのなら、十分な陽キャなんじゃないのかなと思ってしまいます。(もちろんクラブに出入りするような陽キャとは違うけどね)

たぶんほんとうの陰キャって、本当に引きこもりやニートやホームレスの状態で、生き方が分からなくって、ひとりぼっちで苦しみ続けている人のことを言うと思うのです。

そしてそこに『ふつうの人(大多数の人)』との境界線があって、それを乗り越えられるか、あるいは乗り越えたいと自ら選択するかで『ふつうの人』になれるかが決まってくるのだと思います。

逆に言えば、本当に生きづらくて苦しんでいる人の前で「私も陰キャだよ」と表現してしまうことに、ほんの少しの怒りすら覚えてしまう。いや、怒りとは違うかもしれないけれど「きっと本心は伝わっていないんだろうなあ」と思うのです。

そうやって自らの周りを見渡してみた時に、心からの理解者ってせいぜい1人ぐらいしか見当たりません。

その理解者さんだって『ふつうの人』で自分の人生があって、たまたま洞察力や認知力に優れているから理解できているのであって『ふつうじゃない人』の仲間ではないのです。

だからといって深く依存したり『ふつうじゃない人』に引きこむつもりなんて一切ないし、そういう人は自らの好きな人生を歩んでいったら良いと思う。それは僕自身にも言えます。

以前『最適な生き方の整理』という記事を書きましたが、自分自身がどちらに行ったら良いのか、本心ではどちらに行きたいのかが、いまいち見えてきません。

今は僕の持病である双極症(双極性障害・躁うつ病)がどうやら悪化しているタイミングのようなので「生き方を選ぶどうこうの前にそもそも休め」という時期なのかもしれませんが、たぶん躁よりの混合状態ですから、おそらく動いていないと不安なのです。

「ゴールを決めたい」
「その道筋に沿って進みたい」

その目的志向的な考え方は昔から強くって、逆に今現在を楽しめたらOKのような『過程志向』については、どうも僕には度を過ぎると毒になってしまうようです。

かといって、現状が目的志向型で非常に疲弊していて、何かや誰かに支えられていないと崩壊してしまいそうなのですから、目的志向との付き合い方も考える必要があります。

いずれにせよ、

「今後どう生きたいのか」
「自らはどう在りたいのか」

をもっともっと明確に定めて、その道に沿って進む準備を進める時期なのではないかなあと思います。

もし仮にそれが今後1ヶ月ぐらいで定まらない場合は、たぶんビジネスでもして、来るべき時に備えてお金でも貯めておくのが一番良いのではないかと思います。

そう考えると、今やっていることのリバランスをしなければいけません。

とにかく、来月2月はそういう「自らはどう在りたいか」の問いについて考え続けて、答えを出せる1ヶ月にできたら良いなあと思いました。

最後までお読みいただきありがとうございます。

相河佑季でした。