感情と創作と日常について。

日々の言葉

こんにちは、相河佑季です。

今日は『詩を書く』という詩を書きました。

『詩を書く』(note)

「なにかを書きたいと思ったのですがなにも出てこない」
「その状況をそのまま詩にしたら良いのかも」

と思って書きました。

「なぜ何も出てこないのか」

と言えば、それは今日はほとんど感情が動いていないからです。

寝ている時に少し印象的な夢を見た気がしますが忘れてしまったし、起きたばかりで何か思い悩むこともなく、そのまま詩を書こうとしたので何も出てこないという状況になりました。

僕にとって、創作とは怒りであり悲しみです。

何かに怒っている時、深く悲しんでいる時ほど、良いものが生まれやすい気がします。深い感情の傷を、創作という形で昇華して癒そうとしているとも言えるでしょう。

ですが、最近はそこまで深く感情が動くことが少なくなりました。

その理由も明らかで『感情が動かない環境づくり』をしてきたからです。

・やりたくないことの排除
・人間関係の制限
・効率的な生活環境

これらを通して、ストレスを限りなくゼロに近づける生活環境を構築してきました。

だから現時点では、外的要因によるストレスは最小限に近くなっているのですが、一方で『感情が動きづらい』という副作用が生まれます。

もちろん僕も、不安や怒りに襲われるとか、死にたくなったり絶望感に浸ったりすることはあります。

しかしそれらはあくまで僕の内部から生まれてきたもので、精神的特性と言ってもよいものです。

外部の誰かや何かからの干渉によって引き起こされる激しい感情の動きは今はほとんどなくなって、日常生活をそれなりに平安に過ごせるようになりました。

かつては激しくヒステリックに怒り狂うこともありましたが、今はそれもありません。

しかし、感情が動きづらくなると影響が出てくるのが『創作』です。

何かをつくる原動力となるエネルギーとは位置エネルギーのようなもので、上下や左右に揺さぶられれば揺さぶられるほど大きくなります。感情エネルギーが鮮やかな創作となって飛び出すのです。

正直、感情の動き、特にネガティブな感情の動きを元にした創作は疲れます。常にマイナスと向き合い続けなければならないですから。

ですがそれは僕にとって必要悪のようなもので、もし何かを創り続けたいのなら、自分自身と深く向き合わなければなりません。マンホールの下に流れているヘドロのような下水から目を背けてはならないのです。

下水をマンホールからあふれさせる薬剤。それが外的要因によるストレスです。だから、今のストレスゼロに近い環境は、本来創作にとっては良くないことなのだと思います。

ただ、今のこの環境は、僕自身が望んで作った環境でもあります。

外的要因のストレスに、それによって引き起こされる自分自身の激しい感情に疲れて「もうこんな人生は嫌だ」となって作り上げてきた生活環境です。

それであれば、その本心にも正直であらねばなりません。そうしないと、自らを痛めつけ続けた結果の、近い将来の死が約束されているのですから。生きなければ創り続けることも出来ないのです。

つまり、僕は今の環境を維持したまま、ネガティブな感情エネルギーに頼らない創作の方法を見つけていく必要があります。

そのために何をすべきかといえば、それは創り続けることです。感情ではなく、創るということそのものと向き合い続けるということです。

作品は自らの分身でしょうか?それとも子供でしょうか?

どちらも正解ですが、より正解に近い回答があると僕は思います。それは創ること自体が作品だということです。

プロセスが大切です。プロセス自体が作品なのです。

結果主義、生産性第一主義から目覚めて、資本主義的な価値観から脱しましょう。結果にこだわることをやめて、ただ生き抜き創り続けていることそれ自体を愛しく大切に扱うのです。

そうすれば、きっといつか創作の方から、近づいてきてくれると思います。

最後までお読み頂きありがとうございます。

相河佑季でした。