依存先がほしい気持ち

ただの日記

相河佑季です。

今日はなんだろう、「がんばりたくない」な気持ちがものすごいです。

なんかここ最近すごく孤独を感じることが多くて「依存先がほしいなあ」なんて思ったりしてしまうのですが、対物だけだとやっぱり孤独感があるし、対人だと他人に迷惑をかけてしまうので、どうしよううあーと悩んでいます。

もし対人で誰かに依存するのなら「どの界隈が良いのだろう」と考えることもあって、仮に特定のパートナーさんではなく複数人の友人を作るのだとしたら、どんな集団に混じったら幸せなのかなあとか……。

以前どこかで書いた気がするけれどおそらく趣味性の高い界隈は合わないし、かといって利益だけで繋がっているビジネス界隈もおそらくいずれ疲れて離れてしまうと思います。

メンタル界隈はダウナーで好きだけどずっと暗いところにいると「これじゃダメだ」と思ってしまう時があるし、音楽界隈も趣味性やエンタメ性が高いので共通のゴールを見出せなくてなかなか合わないでしょう。

そう考えるときっと僕はやはり不特定多数ではなく特定少数の中に混ざっていきてゆくか、大量すぎる不特定多数の中のごくわずかな一部としてなるべく視認できないような生き方をするのが一番メンタルが楽であって、日陰でこっそり生きていくのが合っているのです。

となれば、その前提を踏まえて『なんらかの依存先』を探すのが良いのであって、でもものすごく残念なことに僕は人間という社会的生物ですから、完全に対物だけに依存して生きていくことは非常に困難です。

もしもっと僕の精神性が向上して、自然との対話だけで孤独感を埋められるぐらいに成長したのならば、山奥にひとりこもって暮らしていくこともできるでしょう。

でも僕はまだそこまでではないし、まだまだどこかで依存先を求めてしまいます。ああ、もっと上手く自分自身を支えることができたら良いのにな。

ただどの界隈も合う感じがしないし、やっぱり1:1の深い関係性を数人持っておくぐらいが一番良いのかもしれない。でもそれだけだとなんだか寂しいものを感じる。

なんらかの組織に所属しておきたい感じもするのは、きっと『社会の一員としての裏付け』がどこかに欲しいのでしょう。

こう、生きたいように生きていたら気がついたら社会のかなり隅っこの方で生きるようになってしまいましたから、なんらかの『社会的保障』のようなものを欲しているのです。

その社会的保障というものは、誰かからの認知であったり、組織への所属によって担保されるものであって、それらが現在時点では希薄であるので、僕は困ってしまっているのだと思います。

なんかそういった、なんともいえない難しい世界への認識の中で今日も生きているわけなのですが、もしかしたら今年はそういった『社会的保障』のようなものを求めていく一年になるのかもしれませんね。

なんだかんだで2025年ももうすぐ2週間が経とうとしているけれど、ほんの少しずつでも良いから、前に進んでいけたら良いなあと思いました。

最後までお読みいただきありがとうございます。

相河佑季でした。