僕は冷たい人間なのだろうか。

日々の言葉

相河佑季です。

ここ1〜2ヶ月の話なのですが、僕のことを『冷たい』と表現する数名の人と出会うことがありました。

この数年間の中では人と交流することが増えたので母数の問題もあるかもしれませんが、あまり『冷たい』という表現はされたことがなかったので、少々戸惑っています。

似たような表現として

・クールである
・ドライである

といった表現がありますが、この2つは正直当てはまっていると思うのです。

僕は事実と感情をハッキリと分けることを好むし、頭が感情に支配されていなければ、原則的には合理的と思われる判断を取ります。

例えばもし何か目標があって時間確保しなければならない時、

・手間はかかるが楽しい料理
・一瞬で食べられる時短食品

の2つがあれば、全く同じ栄養価であれば間違いなく後者を選びます。楽しいとかどうでも良いのです。

仮に楽しいが判断に影響するのであれば、楽しいと思うことがモチベーションアップや生産性向上につながるケースのみで、もしそのケースの場合、あくまで目的に対する手段として『楽しい』を取ります。

それ以外の『楽しい』に、休息以外の意味はないので無駄だと考えます。

このあたりは間違いなく『クール』であり『ドライ』であって、もちろん非合理的な選択を取ってしまうことはありますが、僕の基本的な考え方の構造はこのようなものなのです。

でもそれって『冷たい人』と一致するのでしょうか?

僕はよく人から「優しいね」と言われることも多いです。こんなにドライでクール寄りなのに、僕のことを優しいと評してくれる人も多い。

だからここ最近の「冷たい」という評価にはだいぶ戸惑っているというか、なんだか傷ついていて、ものすごく変な感じがします。

僕は相手のことを考えて言葉選びをしているし、発言だってしています。それがなるべく楽しい経験だったり、役立つ内容になるよう配慮しているつもりです。

それなのに冷たい人と言われるのは、きっとどこか心外なんだろうなって思います。

でもたぶんなんですけど、これって『冷たい人』という概念とか、個々人のスタンスの違いなんですよね。

例えば『目標とかゴールとか考えずに、ただみんなでワチャワチャ楽しいことをするのが好きな人』から見たら、僕はそういう集団にはなかなかなじめないので、そっけない返事をして冷たい人になります。

あるいは『合理ではなくなんでも感情や直感で判断する人』から見ても「なんで共感してくれないの」とか「なんてドライな人なんだろう」という評し方になって、結果的に冷たい人って見方になるんだと思います。

それで、最近は人付き合いが少し増えたせいか分かりませんが、そういう概念や判断基準を持つ人たちが周囲に多くて、僕は『冷たい人』になっているのかもしれません。

なんだろう、今まで僕がいた界隈では『優しい人』だったのに、趣味性の強い界隈にいると『冷たい人』になるのってなんだか不思議です。

なにより不思議なのは「君は冷たいよ」と言う人が、自らと相手の概念の違いによって引き起こされる言動であることを理解していないことです。

世の中には、僕のことを優しいと評する方もたくさんいて、そういった中で「この人は冷たい人だ」と相手に直接伝えることはどういう意味を持つか。それは単に相手を傷つける言動であるということです。

単純に概念の違いによって起こる『多様性』でありすべては平等なのに、そのことに気がつかずに自らに合わない人を冷たいと評するのは、いかがなものかなあと僕は思ってしまいます。

でもこれはきっと僕もよろしくないのです。

ドライであること、クールであることが良くないという意味ではありません。ただ単に、生きる場所を間違えているのです。

きっと僕には「楽しめればなんでも良い」という趣味性の強い界隈は合わないのでしょう。もっと生きることに真剣だったり、深く真正面からぶつかって考え続けたり、あるいは人間関係なんてどうでもよくてずっと毎日FXチャートでも眺めているような世界にいる方がずっと合っている。

だからきっと、これは予言なのですが、そのうち今の界隈からは離れてしまうかもしれません。

完全に離れなくとも、似たような形で全く別の活動を始めることでしょう。

ぶっちゃけ僕は、楽しく平和に生きていけるのならなんでも良いのです。それがベースにあって、創造的な生活ができるのならなお良いのです。目標やゴールを設定して、常にそこに立ち向かう人生を選んでいきたい。

そのためには、今の環境はあまり合わないのかもしれません。

もしその願望に従って孤独へと突き進むのなら、僕は望んで孤独になります。だってもしひとりぼっちになったとしても、そっちの方が楽しいんだもの。何かを真剣に追いかけている方がずっと楽しい。

こうやって、なんというのでしょう、自閉的な生活になってゆくのだと思いますが、別にそれで良いのです。やりたいことをやりたい時にやりたいぶんだけやれたら、僕はそれで良い。

ただ楽しくみんなでワチャワチャやりたい人、そして僕のことを冷たいと評する人たちは、僕の見えないところでワチャワチャやってもらっていたら良いのです。

これは皮肉でもなんでもなくて、ほんとうに、人間には好きな生き方を選び取る権利があるし、幸せになる権利だってあります。その通りに生きられるのならそれが一番だと思う。

でもそれは『相互不干渉』が前提です。

自分が幸せでも相手を不幸にしたり傷つけたりしていたらそれは間違いだし、相性の合わない人と付き合う必要は全くありません。お互い見えないところで幸せになっていたら別にそれで良いのです。相性の合う人たちだけで干渉し合って、より良い未来を目指していけたらそれで良い。

だからきっと今年は、よりそういったスタンスの生き方が形になってゆく。僕にとってそんな時期になると思いますが、なるべく心地よい環境を目指して、土台作りをがんばっていきたいなと思います。

最後までお読みいただきありがとうございます。

相河佑季でした。